しずおかグリーンツーリズム研究所
大魔神「Q」の旅や思いをつづるコラム
200407<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>200409
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
山口・大分の旅2004.4.29~5.2(その4)
豊後高田を後にした我々は宇佐市にある伝承食工房「とうがらし」を目指した。
たんぼの真ん中にあるガルバニウム板と木を使った目を引く斬新なデザインのその中には現代キッチンと竈、麺打ち台、半地下の貯蔵庫、外にはバーベQグリルがある。

そこの主、金丸佐佑子さんはこの工房の名の意味を言う。
「幼い頃、祖母や母から“唐辛子の立派に育つ家は栄える”と聞かされてたんよ。
緑の葉は佃煮や味噌漬に、青い実は柚こしょうに、赤く熟れた実は冬の白菜漬、
春の高菜漬、そして夏の糠漬に使うんよ。つまり唐辛子の出来は一年の台所
仕事を左右する=家事を大切にすること」。ここは金丸さんが食文化を研究する私的な場なのだ。
7年前、湯布院からこの「とうがらし」のお披露目会に向った。ゲストは醗酵学で
有名な小泉武夫先生、竹と食をテーマに3時間ぐらいお話してくれた。
そのお話をまとめたものを金丸さんに送った。録音していたはずだったのが、
しくじったらしく彼女の手元に記録がなかったことがあって、とても喜んでいた
だいた。その時からのご縁である。年1回は必ず顔を出している。
 
「今日はイワシの糠床炊きを用意したけん。イワシを糠床で炊く、味を引き
締めるために山椒の実を入れちょるんよ」。飯ダコの煮付けに竹の子とイカの炊き合せ、山椒、唐辛子はじめ香辛料の使い方が実にうまく、どれもこれも美味しくいただいた。そのうち、隣の安心院町の葡萄で作った自家製ワインも出てきて、一気に昼食が盛り上がった。ちょっと舌に刺激があるワインである。
「溝口さん、帰ってきて、このとうがらしやってみない?」と本気かどうかわから
ない事をよく言ってくれる。「でもねえ そしたら酒工房、がんばっても蕎麦食
工房になっちゃうから伝承食工房の維持には力不足で駄目ですね。」
酔いがそろそろ廻りかけた頃、とうがらしを後にし湯布院に向った。
折しも湯布院では「スローフードジャパン」設立に準備が進んでいた。(後半の旅に続く)
スポンサーサイト
山口・大分の旅2004.4.29~5.2(その3)
小倉から日豊本線ソニックにちりんに乗り換えた。九州の特急はいずれ
もデザインがいい。
ゆふいんの森号のデザイナー水戸岡鋭治氏によるものである。
福沢諭吉ゆかりの地である中津に福岡県椎田町役場の友人達
に迎えに来てもらった。豊後高田-宇佐-湯布院に一緒に行こ
うとお誘いしたところ、ありがたくも足役を買って出てくれた。
大分県豊後高田の昭和のまちづくりが注目を浴びている。
私が湯布院にいた時にはその片鱗もなかった。わずか5年
前に始まった商店街のこの逆転劇が今花開きつつある。
昭和30年前後の建てられた店をかつて今風にしようと張
りぼてしたところをはずすと往時の姿が現る。市からの
補助金は昔に戻すという「逆リフォーム」に充てられた。
まさに振り返れば未来が見えたのだ。ショーウインドウ
にはかつてのあこがれのSONYのラジオ「スカイセンサー」
が、トリスウイスキーが例の人形とともに鎮座し、まさに
「一店一宝」が各店に飾られている。
4月30日平日に訪れた我々は目を疑った。平日の昼日中
に地方でもさらに過疎化が進む町の商店街には降ろされた
シャッターと我が物顔にアーケードの真ん中を歩く猫の姿し
か見ないのが普通である。
にも拘わらず300円分の硬貨を握った中学生、バスで来た
初老のおばちゃん軍団、どこかの商工会の視察団らが大勢
闊歩しているではないか。いたるところで逆リフォームの工事
が進められ、一角では昭和横丁が新築されている。
大分県の建築屋は新しいものを古びて造ることが得意だ、
それは湯布院でたんまり見せていただいた。
まさに「時を味方につける」仕事だ。
かつての農業倉庫を改修したそこには、紙芝居&自転車、
そう黄金バットが出し物だった。着色料を効かしたせんべい
状のウエハウスのようなものに水あめをはさんで太鼓とか
言って売っていた、そして紙芝居の後にはクイズ。
正解するとその怪しげな菓子をもらえた。
傍らにはミゼットもバーハンドルのオート三輪も、昔の茶の
間の再現も、グリコのおまけに、エイトマン、Q太郎に鉄人28号、
♪ビルーの街にガオー♪と思わず口ずさんでしまった。
穴を繕ったズボンに、鼻水でてかった袖の服を着てたんぼ
で遊びまわっていた姿を思い起こした。
「まちづくりには、懐かしさと珍しさが必要なんだ」と湯布院の
我師中谷健太郎氏は言う。
我々にとってはまさに懐かしさ、子供たちにとっては珍しさを
思うのだろう。先の中学生が駄菓子屋でポケットの小銭を
さぐりながらおまけ付きの菓子を選んでいたのだった。
さらに5年経つとどうなっているのだろうか?確認に来たいものだ。
自分で価値を見い出す
001s.jpg

草柳大蔵著「続・午前8時のメッセージ99話」より
文中の稲尾氏は別府出身ですね。少年時代の別府湾での漁が安定ある足腰を
つくったんですね。そうそう6月に湯布院の友人の結婚披露宴に出たとき隣の隣は
鉄人衣笠氏でしたねえ 別府湾が一望できる会場でした。 溝久

***「スポーツの秋」です。国体や運動会があります。野球好きの人にはたまら
ない日本シリーズも秋ですね。
野球選手の中には、いろいろな人生教訓を残していった人がいるように思います。面白 いことに、教訓めいたことを言った選手、あるいは教訓めいた言葉と

いうのは、意外に残 らない。残そうと思って残した言葉というものは、どこか薄っぺらなところがありますが、選手が本当に自分の野球歴の中から、体でもって語った言葉というのは印象が強いですね。
野球選手だけではありません。歌舞伎役者もそうですし、小説家も政治家もそうです。
稲尾和久というピッチャーがいたのをご存知でしょうか。最近、日本経済新聞で『私の 履歴書』という30回の連載をなさいました(2001年7月1日~31日)。
「神様、仏様、稲 尾様」といわれるくらい、連戦連投、立て続けに投げ続けたピッチャーなんです。
稲尾投手は、西鉄ライオンズ(今の西武ライオンズ)に入団し、下積みからプロ生活が 始まりました。バッター用のピッチャーだったんです。その当時の西鉄には、大下
弘や中 西太、豊田泰光といった、名うての強打者が並んでいました。これらの選手に対して、毎 日300球から400球投げることが仕事だったんです。そのうち、ストライクはもちろん、ボ ール球も投げなければいけない。それによって、バッターはストライクが来たら球を飛ば す、ボールが来たら見送る
(つまり、ボール球を見極める)ということだったんですね。
毎日毎日、400球を投げさせられるのは若いとはいえ大変だったんでしょうが、
あるとき彼は、「そうか。ストライクはベースの上をちゃんと通らなければいけない。
あとの球 はボールだから、どんな球でもいいんだな。だったら僕の球を投げよう」と考えたんです
ね。ストライクだけでなく、ボール球を投げることで、彼は制球力を身に付けたと
いいま す。これは大変なことですよ。
普通だったら、400球も投げさせられたら「人間は機械じゃない」とか「そんな非
人間 的なことができるか」といった批判になりますよね。あるいは、「退屈だ」という
ことに なると思うんですよ。ところが、自分の仕事の中に、自分で価値を見つけてしまう男がい るんですね。
 つまらなくても仕事を面白くする、捨てたものでも活かして使う、古ぼけた部屋でも新 しい風が入ってくるようにする、というわけです。こんなご時世ですから
ぜひ覚えていた だきたのですが、これを前にお話した人の気付かなかった利益、「天下の遺利」というん ですね。
骨太の空間
003s.jpg

大須賀町の三熊の神社祭りの交流会のときに
異彩を放つ一人の紳士に出会った。東京学芸大学学長の
鷲山さんだ。
氏は隣町の大東町の出身でった。
酒が進むに連れ、140年程前に建てられた自宅を2年がかりで
直しているとのこと。
いよいよ完成し、そのお披露目があった。

うーん 唸る
玄関が迎賓用が別にある。聞くところのよるとかつては
村長宅だった、父は農業普及に夜な夜な人を集め
今でいうところのムラづくりを先導していたとのこと。
おくども五右衛門風呂もしっかり使えるように再生、
でも今の生活もできるように設備は整えられている。

「古民家の 障子の向こうに 琴の音」
当日は遠州そば食文研のそば、大分県大山町の森さんの鯖寿司、
すもも、じもとの食材の料理が並ぶ そして琴の演奏

鷲山さん本人とは直接関係ない人も集まり、自己紹介が始まった。
30人ほどの人が次々に立ち上がり、自分のことそしてこの空間の素晴らしさを語った。
建築は空間を使うものであり、それを構成する部材の存在をなるべく無くしたい
今風のそんな軽やかな空間とは全く違った柱梁の骨太の空間に
皆、酔いしれていた。
「時を味方につけた建築」がここにはある。
敵を味方にすること
002s.jpg

知人にいただいた講演録にハッと思う内容があった。
自分が跡取息子だとし、取締役10人を引き継いだ。
ごますり、信頼できる人、反旗を翻しそうな人いろいろいる。
この時に10人全てを味方にする方法があるのか?

10人に一日人づつ会って話をするとする。
どの順番でするか?
代表として自信をつけるために耳障りのいい人の話から
聞こうかと思ったりする。
ここで敢えて、自分を一番嫌っているはずの人に会う。
そしてこう言う
「真っ先にあなたのご意見を伺いたい。
私を支持して暮れとか、そういうことではない。私はあなたに
二つのことを教えていただきたい。
一つは、もしあなたが私の立場だったら、どういうことをしたらいいと
思うか?このあとの経営戦略について、かねてからあなたの見識を
高く評価しているので、あなたの意見を真っ先に聞きたい。
教えてもらえないか。」

もう一つは「私は欠点だらけの人間で、どこをどう直していいかわからない。
こういう立場になると説教してくれる人がいない。あなたなら、おまえはここを
直せば好かれるようになるとか、素直に意見を言ってもらえると思うから、
何でも言って欲しい。この二つをお願いしたいために、まず真っ先に
あなたと会いました。」と。

そうすると、その最も敵だと思っていた男は次の日から一番の味方になる。
ところが、最後の日に会ったとなると、この野郎、側近から固めて最後に
俺のところに来たなということになる。とにかく遠い順、いやな順から会う。
身近なに人は最後でいい。(おしまい)

※写真は「梅栗植えてハワイへ行こう」を昭和40年代初めに目標を定め、
考える農業を推し進めた故・矢幡治美村長の大分県大山町から今日送られてきた
すももです。送り主森克男さんとは九州ツーリズム大学の同期生。
静岡県大須賀町の学校給食には、森さんのすももが出る。
山口・大分の旅2004.4.29~5.2(その2)
004.jpg

山口・大分の旅(その1)をメールしましたところ
豊橋の栃久保さんから返事がきました。

***今回の「山口、大分の旅」は、いつになく懐かしく拝見、
「これが私の故里だ さやかに風もふいている
あゝおまえはなにをして来たのだと 
吹き来る風が私に云う」

大好きな詩の一つです。
少し前、広島へ仕事で出掛けたついでに、山口の中也記念館
と野外彫刻会場を訪ねました。
文学館としては、(宮澤賢治はスケールの大きさで凄いですが)
建物や、展示設計のセンスや内容の繊細さ等・・
外に類を見ない記念館と展示内容に感動しました。
作家としては、めぐまれた背景があり、親族が遺品を
大切に残していたことと、記念館を創る山口県人の
文化レベルの心意気の高さを感じました。
直後、中也友の会にも入りましたが、何せ遠方で、折々参加できず
残念でした。ひきかえ山頭火も山口県生まれですが
西村屋旅館(中也が結婚式を挙げたところ)の片隅に、
わずかに資料があるだけでした。
漂白の俳人、山頭火との生い立ちの今昔を見たおもいでした。
中也記念館の建物は、宮崎浩の設計とか
東京にも中也ファンが多く、時々東京で分科会が開かれて
いるようです。
久しぶりに、山口を思いだし、中也の詩集を手にとって
みたくなりました。           
 暑中、お元気で****
[山口・大分の旅2004.4.29~5.2(その2)]の続きを読む
人々の心をとらえる民俗芸能活動づくり研修会
志太榛原 当センターでは、昨年度より民俗芸能活動をとおした地域振興に取り組ん
でいます。民俗芸能活動は、地域のコミュニティそのもので、地域づくりに貢献してい
ます。しかし、担い手不足等の課題を抱えている団体も少なくありません。そこで
本年度、当センターでは表題の研修会を開催します。
民俗芸能に興味をお持ちの方は、ぜひ御参加ください。

 日 時 平成16年9月5日(日)13;30~16;00

 場 所 プラザおおるり3階中会議室(島田市)

 主 催 志太榛原県行政センター

 内 容 講演と情報交換会
     演題 「民俗芸能の保存伝承と地域活性化について」
     講師 中村 羊一郎 氏
        (静岡県民俗学会代表理事・静岡産業大学国際情報学部教授)

 問い合わせ先 志太榛原県行政センター振興労政課054-644-9168
グリーンツーリズムそしてエコツーリズム(その1)
環浜名湖地域の観光振興を考える会通称「浜名湖えんため」が開催した講演会に長野県飯田市エコツーリズム推進課係長の竹原雅夫さんの姿があった。上司は観光カリスマに選ばれた井上弘司さんだ。

「同じだらだに文化圏の飯田市から来ました竹前です。タテマエではないですよ、タケハラです。」と講演が始まった。

○○だにー ○○だらーと語尾につけるのがここ浜松がある遠州地方であり、同じ天竜川流域の上流部にある飯田市である。

飯田市の行う都市農村交流と言うツーリズムとは、多様な農山村資源を活用し、「ほんもの体験」をキーワードとして、都市の老若男女の様々なニーズに応える交流事業を展開。本物の豊かな生活とはなんだろうということを提案し、食と農を近づける活動から農家の生きがいづくりや教育、観光などに波及する交流を推進することである。ラフティングボート、渓谷探検から農林業、ボランティアまで200もの体験プログラムが用意されている体験教育旅行。8年前スタート時1,000人の体験が昨年は35,500人まで膨れ上がっている。紹介された映像には危険だと思わせる場面があった。引率の先生は「危険じゃありませんか?」と必ず訊くと言う。「危険です。」竹前さんは言い切る。

安全なこと、簡単なことに安易に流れていくと本物がどんどん崩れていく、これでは駄目だ。インストラクターのリスクマネージメントが勝負だ、でも事故はある。起こったときのトラブル対応に血が騒ぐと竹原さんは言う。こりゃかなわない。(つづく)

山口・大分の旅 2004.4.29~5.2(その1)
暑中お見舞い申し上げます。
お元気にお過ごしですか?
メールがめっきり少なくなって体調壊しているのではと
お見舞いメールいただきましたが、
いたって元気です。
ただ、4月からの職場があまりに忙しくて
書く余裕がなかったのです。
少し前になりますが、山口・大分の旅 2004.4.29~5.2
を連載します。
暑さ厳しい折、くれぐれもお体大切にお過ごしくださいませ。
                      

 今年2月、鹿児島県で地域づくり団体全国研修交流会があった。
そこで出会った方に山口の清徳さんがいた。是非、山口にもと
のお誘いに、ここ数年来GW前半にしている湯布院里帰り時に
途中下車することにした。
 新幹線はどこで降りるのだろうと調べ
ると“新山口”なる駅があった。そんな駅あったかなと清徳さんに尋ねてみると、これまでの駅名“小郡”を変えたとの事。小郡町
にあったその駅名を県都山口の玄関口だから変えたのだろうど、
数十年と使われた駅名の変更には相当なエネルギーを要しただろう。
ホームに降りると清徳さんが待っていてくれた。「SLに乗り換えて山口市まで行く、乗り換えの時間がないので、急いで」。
 煙が上がるホームを目指していくと、そこにはC57形通称
“貴婦人号”あった。津和野に向うお客で混んでいた。
中はボックスシートにテーブルが付き、最後部車両はデッキ
が付き外に出て景色を楽しむことができる。

車掌が山口線SL復活運転25周年記念のオレンジカードの販売に
各席を廻っていた。ならば丁度25年前、ツーリングで当時ブーム
だった津和野まで来た時に見たあのSLは復活したばかりだったのか。
20分ほどすると山口駅の一つ手前の湯田温泉駅についた。

 駅に降り立つと大きな白狐の像が迎えてくれる。そこからカラー
舗装を歩いていくと温泉街に入っていくようになっている。
湯田温泉は、800年ほど前に発見された古湯。白狐が傷ついた子狐
を連れて毎晩やってきては池に浸かるのを見た村人が、不思議に思い近くを掘ると、なんと温泉が湧き出た、という話が伝えられる。

 最近流行の足湯が狭い範囲に5ヶ所もある。足湯のはしごもいいかなあ、
とまずは高田公園の足湯に。熱いのなんのって、茹だった足を引きずって
目指すは中原中也記念館。
「これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる あゝおまへはなにをして来たのだと 吹き来る風が私に云ふ」ここは中也の生誕地で、
その日は生誕97年の祝いをしていた。
 中也は30年の短い生涯を詩のことにのみ捧げ、生前充分な評価を得ることのないまま、志半ばにして異郷の地で没。生前郷里に引き揚げようとしてまとめていた詩集『在りし日の歌』は、友人小林秀雄によって、その翌年に出版された。
 由布院玉の湯はその小林秀雄がこよなく愛した宿である。
そして中也は今や近代文学を代表する叙情詩人として揺るぎない
地位を占めるようになった。
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。